2015年8月31日月曜日

8月30日はトルコの戦勝記念日

8月30日は、トルコにとって最終的に独立を勝ち取った『戦勝記念日(Zafer Bayramı)』です。

第一次世界大戦での敗北により、オスマン・トルコ帝国は国家分断の危機にさらされました。列強に分割占領されんとする国土を守るため、ケマル・アタチュルク率いる抵抗運動政権が祖国解放戦争(または救国戦争)を起こし、1919年から1922年まで、アナトリア東部・南部・西武で戦いが繰り広げられました。
そして、1922年8月30日、ドゥムルプナルの戦いでギリシャ軍を打ち破り、これがトルコ独立の決定的な勝利となりました。そのため、8月30日は『戦勝記念日』として祝日となり、毎年トルコ全土がお祝いムードに包まれます。

以下、NTVのニュースサイトから、式典の様子を翻訳・転載します。

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第93回目となる今年も、トルコの各地で催されたイベントで盛り上がりました。

最初の式典はアンカラのアタチュルク廟で催されました。

式典にはレジェップ・タイイプ・エルドアン大統領をはじめ、トルコ大国民議会議長イスメット・ユルマズ氏、アフメット・ダウトオール首相、憲法裁判所長ズフトゥ・アルスラン氏、フルシ・アカル参謀総長、CHP党首ケマル・クルチダルオール氏、ヌマン・クルトゥルムシュ副首相、ヤルチュン・アクドアン副首相などが参列。アタチュルク廟のアスランル・ヨル(獅子の道)での行進で開始しました。

エルドアン大統領は談話の中で、テロとの戦いのメッセージを発しました。

「大勝利から93年目を迎えた今日、我々に託された共和国を末永くいつまでも残すため力の限り努力し続けます。
アナトリアを永久に我が国として守り抜く戦いは、今もなお続いています。我が国の存亡を揺るがさんとする内外のいかなる力も、我が国の独立と未来に影を落とすことはできないでしょう。アナトリアが敵の侵略から救われ、新国家が設立される過程で戦った戦士たちに今一度神のご加護がありますように。」

アタチュルク廟での式典に続き、エルドアン大統領は「総指揮官」としてベシュテペの大統領宮殿での祝賀を受け入れました。

式典の最後はイスタンブールのアタチュルク文化センターで締めくくられました。

会場にオープンカーで到着したエルドアン大統領は、国歌斉唱の後、8月30日の式典では初めて、市民に向かってスピーチを行いました。


「今年、93年目を迎えたこの大勝利の喜びを我々に味わわせてくれたトルコ軍の総司令官ムスタファ・ケマル・アタチュルクと救国戦争を率いた議会の全てのメンバーを、今改めて敬意をもって偲びたいと思います。

マラズギルトの戦いから今日まで、この大地を我々に祖国として残すために戦った、このために犠牲となって散って行った、戦士の誇りを守った全ての兵士たち、全ての我々の祖先たちに感謝し、冥福を祈ります。アナトリアの大地に足を踏み入れて以降、7つの気候、3つの大陸を治めてもなお我々の心のふるさとであり力の源であり続けたのは、いつでもこの大地でした。バルカン諸国、北アフリカ、中東を失った時の最後の砦もまたアナトリアとトラキヤの大地でした。

1000年もの間、この大地で数々の勝利を治め、裏切者の野望を打ち砕いたわが国民は、今日直面している困難をも乗り越える力と能力を備えています。我々はそれゆえに、『ひとつの国家、ひとつの国旗、ひとつの国民、ひとつの政府』と言っているのです。トルコ国軍は、昨日も今日も陸・空・海で過去から未来に続く独立の戦いを最も保証するものです。改めて、ムスタファ・ケマルをはじめ、全ての戦士たちに感謝と敬意を込め、ご冥福をお祈りします。8月30日戦勝記念日、おめでとうございます。」

式典には大統領府の親衛隊も参加しました。国産戦車ALTAYも参加したパレードでは、やはり国産ヘリコプターであるATAKと訓練機ヒュルクシュも航空ショーを行いました。式典の最後を締めくくるトルコ空軍のアクロバティックチームであるターキッシュ・スターズによる航空ショーは息をのむ迫力でした。
写真:http://www.sabah.com.tr/gundem/2015/08/30/turk-yildizlarinin-gosteri-ucusu-nefes-kesti

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トルコの人々とビジネス上お付き合いをする上で、彼らの祖国への思いを知っておくことは決して無駄ではないと思います。戦勝記念日は、10月29日の建国記念日と同じく、トルコ人にとっては大切な祝日です。こういった日にグリーティング・メッセージを送るのも、信頼関係を築くための一歩かもしれません。

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2015年8月27日木曜日

オーガニック菜園とホテルのコラボ!

※8月20日付けRadikal紙より

『オーガニック菜園のような観光ホテル!』

マスツーリズムに向けて、リゾート地で新たなトレンドが始まっている。
フェティイェ(Fethiye:トルコ南西部・地中海沿岸)にある5つ星ホテルJiva Beach Resort Hotelは、オーガニック・ナチュラルプロダクト菜園、農園で自家栽培した産品をキッチンで使っている。



フェティエ・チャルシュ・ジヴァ・ビーチリゾートホテルで提供される食事の全ては、フェティイェ・カラアージュ村にあるホテルのオーナー所有の土地で生産された新鮮な野菜、オリーブ、オリーブ油に加え、農場で育てている羊などで用意されている。ゲストはホテルで販売されているオリーブやオリーブ油を購入することもできる。


ホテルのオープン・ビュッフェのメイン・レストランである『Accacia』、湖上の島のような形で作られ地中海料理を提供する『Bubon』、湖-橋-海の風景を持つ極東テーマの『Roof』と、特別な装飾でゲストの心に玉座のごとく鎮座する『Lukka Lounge』から成る、4つのアラカルトのオープン・ビュッフェがある。4つのレストランでもリゾート客に、ホテルが独自に栽培したオーガニック、ナチュラル・プロダクトを用いた料理を提供している。


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5つ星ホテルと自家菜園という組み合わせは斬新ですね。
食べ物の安心・安全志向は世界中のセレブに共通するトレンドです。
このホテルの試みは、自然に囲まれたリゾート地ならではのアドバンテージが活かされていると思います。

フェティイェは透き通る青い海と白い砂浜がとても美しいリゾート地。
ぜひ一度行ってみたいものです。

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2015年8月24日月曜日

トルコ、早期総選挙は11月1日?

6月に行われた総選挙で現与党のAKP(公正発展党)が単独政権を維持できなくなり、連立政権による組閣が待たれておりましたが、第二党であるCHP(共和人民党)・第三党のMHP(民族主義者行動党)との連立協議は難航し、ダイウトオール首相は8月18日、組閣断念をエルドアン首相に正式に報告しました。

法改正して大統領権限を強化したい意向のAKPと、大統領の権限強化に反対する他党との考えの違いが明らかになった形です。

これを受けて、エルドアン大統領は21日、「早期総選挙の日取りは11月1日」と発表しました。
「現行の憲法に則り、総選挙後45日以内に組閣がなされなければ、大統領権限で再選挙を決定することができる。期日となる月曜日に国会議長と改めて打ち合わせを行い、早期総選挙に持ち込むこととなるだろう。」

http://www.internethaber.com/erken-secim-ne-zaman-erdogan-tarihi-verdi-808528h.htm


6月の総選挙以来、トルコ国内は大いに揺れています。
総選挙で躍進したクルド系政党HDP(国民民主主義党)へのけん制とも取れる、クルド系武力組織PKK(クルディスタン労働者党)への攻撃が開始され、トルコ東部を中心としてPKKと軍の衝突が頻発しています。

PKKは指導者アブデュッラー・オジャランが1999年に逮捕されて以降、非合法武力組織としての立場は影をひそめ、2013年3月にはAKPが推進する和平プロセスの中において基本的な停戦合意が交わされていました。

しかし、2014年10月のトルコ空軍による南東部ハッカリへの空爆、さらに今年7月スルチュで起きた自爆テロに続く国境を越えてのPKK基地への空爆と、AKPはこれまで続けてきたクルド人との和平プロセスを反故にしようとしています。

国内ではデモや爆発事件が頻発しており、兵士の殉職に関するニュースが連日報じられています。PKKとの衝突で殉職したトルコ軍部隊長の兄である中佐が弟の棺の前で叫んだ嘆きの言葉が、今トルコを揺るがしています。

「昨日まで和平と言っていた人々が、今や最後まで戦い抜くと言っている!」

http://www.gazetevatan.com/sehit-yuzbasinin-yarbay-agabeyi-isyan-etti--856939-gundem/


一方で、この数日前にエネルギー・天然資源省のユルドゥズ大臣が発した問題発言、

「私の目的は、願わくば殉職することだ」

という言葉もまた、今トルコで大いに物議を醸しています。

クルド人との泥沼合戦になっていくのか、総選挙で状況は変わるのか。
停滞気味だったトルコ経済への悪影響も懸念されます。

いずれにしても、トルコ人クルド人ともに、無駄に血が流されることだけは避けてほしいと願います。

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2015年8月20日木曜日

USAで成功したトルコ出身のヨーグルト王

海外で活躍するトルコ人は多いです。コカコーラ社CEOのムフタル・ケント氏もその一人。
今回は、今アメリカで最も売られているヨーグルト『Chobani(チョバニ)』を立ち上げた、ハムディ・ウルカヤ(Hamdi Ulukaya)氏をご紹介します。


1972年、トルコ東部エルジンジャン生まれ。トルコ国籍とアメリカ国籍を持つクルド人。アンカラ大学で政治学を学んだ後、1992年に渡米。2002年に父親の勧めでNY近郊に白チーズの会社を設立。2005年に元Kraft社が所有していたヨーグルト工場を買い取り、『Chobani』と名付けた会社を立ち上げた。2007年にトルコスタイルの裏ごしヨーグルトの生産を開始し、この製品を『ギリシャ・ヨーグルト』と銘打って販売、人気商品となる。2009年にはThe Business Review誌にて「40歳以下で最も成功している起業家40人」に選ばれている。2012年にアイダホに4億5千万ドルで新たな施設を作り、またオーストラリアでも牧場を購入。ブルームバーグによれば2013年に資産54億ドルであることが発表され、Chobaniはアメリカで最も売れているヨーグルトであるとされた。2013年6月にはウルカヤ氏は'Ernst & Young World Entrepreneur Of The Year 2013' にも選ばれている。
※以上Wikipediaより。

2011年10月2日付けMilleyet紙にて、ウルカヤ氏の独占インタビュー記事が載っていたので、要約・転載します。
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『ゴミ箱に捨てた紙切れが人生を変えた』

●お父様の酪農を手伝いながら成長したそうですが、どのような子供時代でしたか?

「祖父はエラズーのシャヴァック部族の長で、父がその跡を継ぎました。部族長と言っても精神的なリーダーでした。私は6人兄弟の一家で、ユーフラテス河のほとり、ムンズル山脈のふもとの小さな町で育ちました。祖父のひざ元で、部族をどのように統率するのかを見て過ごしました。約束は守る、最も大切なのは人と、その人に対する信用であることを、祖父から学びました。父は酪農を営んでおり、私も夏には草原に出て父の仕事を手伝いました。」

「渡米した当初は何もなく、小さなリュックひとつでしたが、実は家族から学んだ経験や知識が詰まっていたのです。成功するために必要なものは全て持っていました。」

●最初の工場はお父様の支援で設立されたのですよね?

「父がアメリカに訪ねて来て言ったのです。ここには旨いチーズが無いから、うちのチーズを持ってきて売ったらいい、と。すぐにコンテナで持ってきて卸売業者に売ったところ、うまく行きました。資金ができたので、工場を建て、2年ほど迷走した後、製品ができました。」

「Chobani設立のストーリーも面白いのですよ。机の上を片付けていたら、一枚の紙が手に触れました。「機械ごとヨーグルト工場売ります」と書かれたその紙を、一旦はごみ箱に捨てました。しかし30分後、ごみ箱からその紙を探し出しました。」

●30分の間に何が起こったのですか?

「チャンスが来た、そう思ったんです。多くの人に毎日チャンスは訪れますが、私はそれに気づき、価値を認めました。あのゴミ箱は私の人生の転換点です。」

「工場で働いていた55名の従業員たちも決定要因でした。彼らは1か月後に閉鎖される工場で、それでも自暴自棄になるでもなく一生懸命仕事をしていた。とても感動しました。閉鎖を待つ工場でこんなに働く人々が、新たな投資をしたらどれだけ働いてくれることだろう、と思いました。彼らは期待を裏切らず、4年後にはアメリカで最大の牛乳仕入れをする工場になりました。」

●トルコ人は「ヨーグルトを発明したのはトルコ人だ」と言いますが、あなたの製品は「ギリシャ・ヨーグルト」と銘打ってますね。反発はありませんでしたか?

「フランス人もギリシャ人もブルガリア人も、もちろん我々も同じことを言いますが、ヨーグルトは一つの地域限定ではありません。ギリシャ・ヨーグルトはトルコの物とは異なります。私たちの裏ごしヨーグルトに似ていますが、もっと水っぽく甘いです。また、彼らギリシャ人は既にアメリカで市場を確立しており、“ギリシャ・ヨーグルト”という物が認知されている環境で同様の製品を違う名前で打ち出すのは、ビジネスとして大きなミスになります。アメリカ在住トルコ系ビジネスマンから多少の反発はありましたが、時間とともになくなりました。ギリシャ人からの反発もありましたよ。トルコ人がひとり現れて、自分たちを上回ってしまった、と嘆いていました。」

●「Chobani」の名称はどこから?

「バルカン諸国、ギリシャなどで“Choban(チョバン)”は共通の言葉で、即ち“羊飼い”を表します。私もこの単語が持つ共通性に打たれました。つまり、羊飼いはどこでも羊飼いであり、ヨーグルトはどこでもヨーグルトなのです。」

●アメリカ在住のトルコ人からビジネス上のお申し出はありますか?

「一緒に仕事をしたいというお申し出はたくさんありますが、ただ同朋のトルコ人である、というだけでは一緒にやる理由になりません。その個性や設備を証明してもらいたいのです。マリアやジョージと何が違うのか、そこを知りたいですね。」

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なかなか興味深いサクセス・ストーリーです。

この若き成功者の躍進は止まりません。
8月10日付けRadikal紙では、ウルカヤ氏の新たな挑戦が報じられていました。
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スターバックスのライバル、ヨーグルト王ウルカヤ

“Chobani”ブランドでアメリカで話題のハムディ・ウルカヤ氏が、コーヒー輸入及びコーヒーチェーンのLa Colombe(ラ・コロンブ)と業務提携した。

ニューヨーク・タイムズによると、ウルカヤ氏は会社の経営には携わらず、顧問として関わりつつ、より本業であるヨーグルトに焦点を当てていく、とのこと。
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La ColombeはNYのミシュラン3つ星レストランや5つ星ホテルなどで取り扱われているコーヒーで、昨年から日本でも一部で限定的に販売が開始されている、今注目度の高いコーヒーチェーンです。

そこに目を付けるとは、さすがです。
新進気鋭の起業家の活躍、今後も見逃せません。

まずは、アメリカで最も売れてるというヨーグルトChobaniが気になるところ。
日本への進出を期待します。

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2015年8月17日月曜日

1999年トルコ北西部地震から16年

今から16年前の今日、1999年8月17日午前3時2分、トルコ北西部の町イズミットのコジャエリ/ギョルジュクを中心としたマグニチュード7.5の大地震が起こりました。

この地震はマルマラ地方全域、アンカラ、イズミールなど広い範囲で感知されました。
2010年公式調査による数字では、死者18,373人、負傷者48,901人。非公式な情報によると、約5万人の死者、10万人近い重軽傷者が出たとも言われています。また、133,683棟の家屋が倒壊し、約60万人が家を失いました。トルコ近代史上最悪の部類に入る大災害でした。

中心的な被災地となったマルマラ地方は、トルコで有数の工業地帯でもあり、この地震はトルコ全土に甚大な被害をもたらしました。
また、イスタンブール近郊に急速に発達した工業地帯ということで、短期間で建設された新興住宅が数多く倒壊し、業者の手抜き工事が社会問題として指摘されるきっかけとなりました。

個人的な体験談になりますが、地震当時、私は1か月かけたトルコ旅行の最終行程で、パムッカレで有名なトルコ西部の町デニズリにおりました。震源地となったイズミットには旅程の初期に立ち寄り、現地の人々の温かいホスピタリティに溢れた対応が昨日のことのように思い起こされる、そんなタイミングのできごとでした。
当然ながら現地の知人は誰一人連絡が取れず、それどころかイスタンブールへも日本への国際電話も一切が不通のパニック状態でした。
不安を抱えながら高速バスでどうにかイスタンブールまで戻り、帰国の便を待って過ごした新市街のホテルでは、余震の恐怖から家屋の中で眠れない多数の市民が目の前のタクシム広場で寝泊まりしているのが見えました。

イズミットでの地元の人々との温かな交流やのんびりした海辺の風景が突如として破壊されながら、何もできない自分にどうしようもない歯がゆさを感じつつ、後ろ髪を引かれながら帰国したことを覚えています。

それから半年後の3月、無事の確認が取れていた現地の友人一家を訪れました。
海辺にあった彼らのアパートメントは海に流されてしまっており、4人姉妹とその両親の6人家族はすぐ近くに設営されたテント村で生活していました。
まだ被災の爪痕が痛々しく残るテント村のすぐ近くに集団墓地があり、大切な家族や親類、友人を喪った人々の悲しみが色濃く漂っていました。

しかし、テント村を隅々まで案内してくれた友人や、招き入れてくれたテントの住人たちは、不自由な環境でも前向きでした。

トルコの人々は住空間をとても大切にします。
外側がどんなにボロ屋であっても、内部は整然として、キリムや絨毯、きちんとしたインテリア家具、そこかしこに細やかな装飾品が彩りを添えている、そんな室内空間によく出会います。
仮の住まいであるテントでさえ、その内部には花を飾り、手編みのレースなどがあしらわれていました。

そこに、私はトルコの人々のたくましさを感じました。

疲弊した中でも今ある生活を大切にし、キラキラした目で地域図書館の再建プロジェクトについて教えてくれた友人の顔を、今でも思い出します。

あれから16年、4人姉妹の内2人は既に結婚して子供もいて、それぞれに仕事を持ったり専業主婦になったり、元気に生活しています。仕事場を失ったお父さんも新たに職場を持ち、ひたすら明るく元気だったお母さんも相変わらず健在なようです。

イズミットには、現在IHIが建設を進めるイズミット湾横断橋が、2016年1月末の完成を待っています。長さ2682m、主塔間距離1550mで、世界第4位の長さの吊り橋となります。
この橋が完成すると、イスタンブールからイズミールへの車による移動時間が大幅に短縮されることになり、イズミット含むトルコ北西部への大きな経済効果が見込まれます。

発展の道を突き進むトルコ。
被災の記憶を風化させることなく、新たな時代を築いて行って欲しいと思います。


https://tr.wikipedia.org/wiki/1999_G%C3%B6lc%C3%BCk_depremi#cite_note-ref606-3
http://www.radikal.com.tr/radikalist/17_agustosun_icimizde_biraktigi_zehir_deprem_psikolojisi-1416605
http://www.ihi.co.jp/var/ezwebin_site/storage/original/application/706fe12902f44fc8773593777658f226.pdf

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2015年8月12日水曜日

【イスタンブール】メトロバスでスマホ充電

スマートシティ計画を推進しているイスタンブール。
既に2013年に市営バスでWi-Fi及び端末充電サービスを開始していましたが、今回新たにメトロバス(イスタンブール市内を走るガイドレールバス)でも同様のサービスを開始した、とのニュースを、8/7付けRadikal紙が報じています。

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メトロバスでチャージの時代


ここ近年、最新のスマート・バスでWi-Fi及び充電サービスを開始したIETT(イスタンブール市営交通)は、バスに続き今度はメトロバスにチャージ機器を導入した。
メトロバスに設置されたUSB端子付きのチャージ・ボックスにより、市民が自身の端末を充電することが可能となる。

IETTが大手経済誌『FORTUNE TURKEY』に語ったところによると、250台のメトロバス、850台のバスから成る合計1100車両に充電サービスが既に導入され、近日中に全車両に拡大されるとのこと。

1100台に導入された充電サービスのIETTの総費用は、付加価値税を除く280,000TL(約1250万円)だと言う。

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公共交通機関で携帯の充電ができるとは、便利な時代ですね。

ちなみに、「スマート・バス時代」開始時のニュースはこちら、2013年11月13日付けCNNトルコより。

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イスタンブールで『スマート・バス』時代



イスタンブール市長カーディル・トプバシュ氏は、サービスを開始した100台のIETT市営バスの「Wi-Fi」及び「スマートフォン充電ユニット」でもって、イスタンブールでスマート・バスの時代の幕開けだとした。

「世界のあらゆる大都市で、NY、東京、ロンドンを含む発達した都市において、交通事情は新たな解決策を求めている。都市生活における最重要課題は交通とアクセスだ。我々もこれらに並行して世界最高のシステムを探し、その中でも最高峰のものをイスタンブールに導入するため尽力している」と話した。

世界でスマートシティとスマートシステムによる新たなトレンドがスタートしていると指摘するトプバシュ市長は、
「我が国の国民がスマート・バスでインターネット接続ができ、SNSにアクセスできるネットワーク環境を作った。また、スマートフォンを充電できる10個の充電ユニットを設置した。それにより、イスタンブール市民は移動中に充電できて時間を節約することが可能となる。将来的に全車両にWi-Fiを導入する予定。世界でも都市運営及びスマートシティの観点からイスタンブールは非常に成功している事例。スマート・バスに関しては、私の知る限り現在ロンドンでテスト段階にあるだけで、他に事例がない。この件で先駆者となったIETTの担当者たちを称えたいと思う。」
と話した。

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スマートシティの道を邁進するイスタンブール。
他の都市もこれに続くのか、さらなる展開が楽しみです。


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2015年8月7日金曜日

原爆の日とトルコ詩人ナーズム・ヒクメット

8月6日、70回目の広島原爆の日を迎え、改めて原爆の恐ろしさや核兵器廃絶の必要性を感じた方も多いのではないでしょうか。
かく言う筆者も、久しぶりに『はだしのゲン』を部分鑑賞して、胸の潰れる思いで、二度と同じことが起こってはならないとの思いを新たにしました。

遠くトルコでも、広島の原爆を受けてその罪を世界に訴えた詩人がいます。


彼の名はナーズム・ヒクメット(1902-1963)。

現在はギリシャ領となるテッサロニキに生まれた彼は、高級官僚の家柄の父と高級軍人の家柄の母の間に生まれました。
13歳から詩作をはじめた彼は、病気で海軍を除籍になった後、1921年にモスクワに渡ります。社会学・経済学を学びつつ、モスクワで出会ったマヤコフスキーなど文学者たちとの交流の中からマルクス主義の影響を受け、1924年に秘密裏に帰国した後、共産主義者としての活動を行っていました。1925年にトルコ国内で共産主義者の一斉検挙が始まったため、再びモスクワに亡命。1928年に恩赦を受けるため再び祖国の土を踏みますが、結果として収監され、その後は釈放と投獄を繰り返す中、詩人・劇作家・編集者・活動家として活躍。しかし彼の作品は当時のトルコでは危険思想と見なされ、ヒクメットの作品は発禁処分とされました。
釈放されても政府の監視は続き、身の危険を感じたヒクメットは再度モスクワへ移住。1951年にはトルコ国籍をはく奪されてしまいます。
その後、1954年にポーランド国籍を取得した彼は、それからモスクワで息を引き取るまでソ連を拠点に東欧を遍歴しながら活動していました。
トルコでヒクメットの作品の発禁処分が解かれたのは、彼の死去から2年後の1965年、トルコ国籍が回復したのはつい最近の2009年のことです。

1951年にプラハにて国際平和賞を受賞し、世界平和評議会の評議員に選出された彼は、1955年、広島に投下された原爆をモチーフに、一遍の詩を書きました。

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『死んだ女の子(Kız Çocuğu) 』

 【作詞】ナーズム・ヒクメット
 【訳詞】飯塚 広

  扉をたたくのはあたし あなたの胸に響くでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう
  あたしの姿は見えないの

  十年前の夏の朝 私は広島で死んだ
  そのまま六つの女の子
  いつまでたっても六つなの

  あたしの髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの
  あたしは冷たい灰になり
  風で遠くへ飛び散った

  あたしは何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの
  紙切れのように燃えた子は
  おいしいお菓子も食べられない

  扉をたたくのはあたし みんなが笑って暮らせるよう
  おいしいお菓子を食べられるよう
  署名をどうぞして下さい
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この曲には木下航二氏による曲が付けられ、合唱曲として今も広く歌われています。
また、中本信幸氏の訳で元ちとせさんが歌う『死んだ女の子』は、映画『キャタピラー』の主題歌ともなりました。

この楽曲の原詩がトルコの詩人の作品である、ということは、意外と知られていないのかもしれません。
ヒクメットは他にも、『ヒロシマ』と題した詩集や、第五福竜丸事件をモチーフとした『日本の漁師』という作品を作るなど、日本へ関心を寄せていました。

日本の合唱作品100選に選ばれている『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』もヒクメットの詩が訳されたものです。他にも日本語に訳されている作品もあります。

機会があれば、ぜひトルコの偉大な詩人の作品に触れてみてください。

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2015年8月5日水曜日

オリーブオイル・レシピ【冷製レッドキドニー煮込み】

連日続く猛暑で食欲も減退してきますよね。

そこで、夏におすすめ栄養たっぷり、世界三大料理のトルコのレシピをご紹介します。

8月5日Radikal紙にこんな記事があったので要約・転載します。

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『お父さん特製の冷製レッドキドニー煮込み(バルブンヤ・ピラーキ)』


※バルブンヤ:レッドキドニー(赤いんげん豆)=チリビーンズでおなじみのお豆です
※ピラーキ:お豆や魚をオリーブオイルと玉ねぎで煮込んだ冷製料理

夏になると青果物コーナーで山のように見かけるレッドキドニーは、ピラフのように(日本的に言うと、例えば「肉じゃがのように」)、各家庭ごとに異なるレシピで調理され、それぞれに自分ちのレシピが一番だと思っている、そんな食べ物ですね。
ある人は先に下茹でするべきと言うし、下茹で無しで調理する人もいる。
トマトペーストを使う人もいれば、絶対トマトペーストは使わないという人もいる。
野菜入り野菜なし、辛いの辛くないの、それはそれは色んなパターンがあります。
夏の定番と言っても過言ではなく、「今週何度目のレッドキドニー?」ということにもなりがちな料理です。※日本で言えば夏場の素麺といったところでしょうか。

ちなみに、レッドキドニーはいんげん豆の一種で、特にトルコ、ギリシャ、イタリアで作られ、食べられています。

今が旬のレッドキドニー。
父もよく、それは美味しいレッドキドニーを作ります。
筆者が父と一緒に開発した実用的なレシピをご紹介します。

材料
・玉ねぎ・・・中玉1個
・さや入りレッドキドニー・・・750g
・じゃがいも・・・中玉1個
・にんじん・・・1本
・オリーブオイル・・・1/2カップくらい
・トマトピューレ・・・200ml
・唐辛子ペースト・・・小さじ1~2(または唐辛子2~3本)
・レモン・・・1個
・ニンニク・・・5~6かけ

まずレッドキドニーのさやを剥いて中身の豆を洗います。
さいの目に切った玉ねぎを半量のオリーブオイルで炒め、さいの目にしたにんじんとじゃがいもを投入、弱~中火で3-4分よーく炒めた後、レッドキドニーを入れて1~2分さらに炒め合わせます。
その後、トマトピューレと唐辛子ペースト(または小口切りにした唐辛子)とみじん切りのニンニクを入れ、1~2分混ぜながら残りのオリーブオイルを投入。
一個分のレモン汁と、お豆の表面から1cm強かぶるくらいのお湯を注ぎます。小さじ1程度の塩を加え、再度少しかき混ぜて弱火にして蓋をします。

玉ねぎが焦げやすいので、4~5分に一回くらい鍋底を返すのを忘れずに。

お豆が水分を吸ったら火から下ろします。粗熱を取ったらふたのある耐熱ガラス容器に移し、よく冷まします。冷蔵庫で寝かせると、日を追うごとにさらに美味しくなります。

イタリアンパセリなどで彩りを付けると、なお良いですね。

美味しく召し上がれ!

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日本では生のレッドキドニーはなかなか入手できないので、乾物を使う場合は一晩水につけておく必要があります。
さやのままカットしたモロッコインゲンで代用しても美味しいです。(トルコではターゼ・ファスリイェという料理になります)

健康に良いというオリーブオイルも、もっと普段の食事に取り入れたいですよね。
旬の食材を使った美味しいオリーブオイル・レシピ、ぜひお試しください。

トルコのオリーブオイルは高品質でお手頃、おすすめです!



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