2015年8月7日金曜日

原爆の日とトルコ詩人ナーズム・ヒクメット

8月6日、70回目の広島原爆の日を迎え、改めて原爆の恐ろしさや核兵器廃絶の必要性を感じた方も多いのではないでしょうか。
かく言う筆者も、久しぶりに『はだしのゲン』を部分鑑賞して、胸の潰れる思いで、二度と同じことが起こってはならないとの思いを新たにしました。

遠くトルコでも、広島の原爆を受けてその罪を世界に訴えた詩人がいます。


彼の名はナーズム・ヒクメット(1902-1963)。

現在はギリシャ領となるテッサロニキに生まれた彼は、高級官僚の家柄の父と高級軍人の家柄の母の間に生まれました。
13歳から詩作をはじめた彼は、病気で海軍を除籍になった後、1921年にモスクワに渡ります。社会学・経済学を学びつつ、モスクワで出会ったマヤコフスキーなど文学者たちとの交流の中からマルクス主義の影響を受け、1924年に秘密裏に帰国した後、共産主義者としての活動を行っていました。1925年にトルコ国内で共産主義者の一斉検挙が始まったため、再びモスクワに亡命。1928年に恩赦を受けるため再び祖国の土を踏みますが、結果として収監され、その後は釈放と投獄を繰り返す中、詩人・劇作家・編集者・活動家として活躍。しかし彼の作品は当時のトルコでは危険思想と見なされ、ヒクメットの作品は発禁処分とされました。
釈放されても政府の監視は続き、身の危険を感じたヒクメットは再度モスクワへ移住。1951年にはトルコ国籍をはく奪されてしまいます。
その後、1954年にポーランド国籍を取得した彼は、それからモスクワで息を引き取るまでソ連を拠点に東欧を遍歴しながら活動していました。
トルコでヒクメットの作品の発禁処分が解かれたのは、彼の死去から2年後の1965年、トルコ国籍が回復したのはつい最近の2009年のことです。

1951年にプラハにて国際平和賞を受賞し、世界平和評議会の評議員に選出された彼は、1955年、広島に投下された原爆をモチーフに、一遍の詩を書きました。

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『死んだ女の子(Kız Çocuğu) 』

 【作詞】ナーズム・ヒクメット
 【訳詞】飯塚 広

  扉をたたくのはあたし あなたの胸に響くでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう
  あたしの姿は見えないの

  十年前の夏の朝 私は広島で死んだ
  そのまま六つの女の子
  いつまでたっても六つなの

  あたしの髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの
  あたしは冷たい灰になり
  風で遠くへ飛び散った

  あたしは何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの
  紙切れのように燃えた子は
  おいしいお菓子も食べられない

  扉をたたくのはあたし みんなが笑って暮らせるよう
  おいしいお菓子を食べられるよう
  署名をどうぞして下さい
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この曲には木下航二氏による曲が付けられ、合唱曲として今も広く歌われています。
また、中本信幸氏の訳で元ちとせさんが歌う『死んだ女の子』は、映画『キャタピラー』の主題歌ともなりました。

この楽曲の原詩がトルコの詩人の作品である、ということは、意外と知られていないのかもしれません。
ヒクメットは他にも、『ヒロシマ』と題した詩集や、第五福竜丸事件をモチーフとした『日本の漁師』という作品を作るなど、日本へ関心を寄せていました。

日本の合唱作品100選に選ばれている『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』もヒクメットの詩が訳されたものです。他にも日本語に訳されている作品もあります。

機会があれば、ぜひトルコの偉大な詩人の作品に触れてみてください。

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