2015年2月12日木曜日

訃報;『トルコ共和国の歌姫』ミュゼイイェン・セナール




201528日、『共和国の歌姫』として知られるミュゼィイェン・セナールさん(96)が肺炎で死去しました。


 


ミュゼイイェンさんは、トルコのサナートと呼ばれる芸術音楽の歌手として草分け的な存在の大御所でした。サナートはトルコの古典声楽に起源を持つ一種の歌謡曲で、その哀愁漂う独特な旋律とこぶしの効いた歌唱法はトルコ人の心に深く響き、聴く者は目に涙を浮かべながら酒を片手にしっとりと聞き入る、そんな風情がよく似合います。個人的な見解ですが、トルコの大衆音楽には基本的に「哀愁」が根源にあり、大衆が音楽に求めるものが「哀しみの共有」であるという点で、日本の演歌や昭和歌謡のような大衆音楽に近いように思います。

 

ミュゼィイェン・セナールは1918716日、トルコ北西部の街ブルサに生まれました。6歳の時に結婚式で母親と一緒に歌ったことがきっかけで、その小鳥のような歌声は人々の耳目を集めました。しかし、あまりにも注目を集めすぎたため、ある朝突然吃音を発症してしまった少女は、その後歌うことで最も自分を表すことができた、と言っています。その天性の声に魅せられた当時の名だたる音楽家たちがこぞって彼女への指導や楽曲提供を申し出たと言います。日本で言ったら美空ひばりのような存在でしょうか。建国の父、ケマル・アタテュルクも彼女の歌声のファンで、セナールはしばしば枢密院で歌を披露したそうです。

ラジオ番組でその声をトルコ全土に広めたセナールは、15歳の時に初めてクラブのステージに立ち、以来トルコの有名なクラブでの数々の名ステージ、またレコーディング活動を通して、トルコ音楽界に新風をもたらしました。1998年にはセゼン・アクスやニリュフェル、タルカン、シェブネム・フェラーなど、現代トルコのミュージック・シーンの重鎮たちも名を連ねる『Müzeyyen Senar ile Bir Ömre Bedel』というデュエット・アルバムも出しています。1998年には『国家芸術家(日本で言うところの文化勲章みたいなものでしょうか)』に選ばれました。

2006年に脳梗塞を患い、左半身不随となってから、リハビリを続けていましたが、ついにその歌声が再び聞かれることはありませんでした。

華やかな歌手人生の裏で、三度の結婚で一度も花嫁衣裳を着ることがなかったというセナール。
最初の夫はあるホテルのオーナーでしたが、相手の家族から「身分が違う」と反対され、夫も家族からの一切の支援を断ち切られてしまい、19歳にして一子を身ごもりながらも家計はセナールの肩にかかっていました。しかし、歌手活動も夫のやきもちで思うようにならず、結局は別れることに。
二番目の夫はサッカー選手でした。今回もその家族から「歌手に用はない。しかもバツイチ子連れなんて!」と嫌がられ、またしても望まれぬ結婚でした。この結婚でさらに二子をもうけますが、やはり夜遅い時間の活動を伴う歌手人生ゆえに、この結婚も長続きはしませんでした。
1951年、33歳にしてバツ2で三人の子持ちとなったセナールは、「人生で唯一愛した男」と言うサウジアラビア大使と三度目の結婚を果たし大使夫人となりますが、子どもたちを残してサウジアラビアに移住することはできないと、二年後に涙ながらに離婚することとなりました。(※「政府が反対し別れさせた」との本人の発言もあります)

この三度目の夫のことを、「人生で初めて、自分の全てを委ねることができる、そんな度量の大きな男の中の男だった」と回顧しています。彼が1985年に他界するまで文通を続けていたと言います。

波乱万丈な人生を送ったセナールですが、そんな自分の人生について1978年にこんなことを言っています。

 

「私は、1万人の女性の人生を自分の人生に詰め込んだ、そんな女なのよ。充実した、素晴らしい一生だわ」

 

伝説の歌姫の訃報に際し、トルコ中が悲しみに暮れたそうです。ひとつの歴史が幕を閉じた、そんなところでしょうか…。

この機会に、ぜひ一度トルコの一時代を築いた歌声を聴いてみてはいかがでしょうか。トルコ人の心を理解する一助になるかもしれません。

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『Ben Seni Unutmak İçin Sevmedim』(あなたを忘れるために愛したわけじゃない)
 
*参考*






 

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